Takuya A's Beer Collection
Takuya A's Beer Collection

一日の終わりに、寛ぎながらグラス片手にビールを嗜む。
今日も一日お疲れさまでした、無事平和に過ごせたことに感謝する。

書籍

川又一英 著『ヒゲのウヰスキー誕生す』


2023/1/5

読了。ニッカウヰスキー創業者 竹鶴政孝さんの生涯を描いた伝記小説。

単身英国に渡りウイスキーの醸造技術を学んだ後、日本でウイスキー造りに人生を捧げた竹鶴政孝さんの波乱万丈な人生が心情&情景豊かに描かれており大変興味深い🥃😌📖

参考抜粋:

P.19
洋酒の歴史は明治の文化開化とともに始まった。記録に残る初めての輸入洋酒は、明治三年のジンである。
翌年には、横浜山下町のイギリス商館カルノー商会がウイスキーを輸入している。肩張丸型の壜に入ったわが国初輸入のウイスキーは<猫印ウヰスキー>であったと記録されている。

日本に輸入された最初のウイスキーはアイリッシュ? 猫印ウイスキー – たらのアイリッシュ・ウイスキー屋さん

P.31
「いいか、よく覚えておくんじゃぞ。酒はな、いっぺん死んだ米を、こうしてまた生き返らせて造るもんじゃ」

P.78
竹鶴が滞在した一九一九年当時、大手グレイン・ウイスキー業者の集りから出発した連合会社DCL(ディスティラリー・カンパニー・リミテッド)が次々と蒸溜所を買収、巨大企業に成長していた。DCLは以降六年間に、ブレンディッド・ウイスキーのビッグ・ファイブと呼ばれていた<ブラック&ホワイト>のブキャナン社、<ホワイト・ラベル>のデュワー社、<ヘイグ>のヘイグ社、<ジョニー・ウォーカー>のウォーカー社、<ホワイト・ホース>のマッキー社を次々と合併吸収することになる。

DCLとビッグ5 – オールドウイスキー研究日誌
【0232夜】DCL帝国を率いたスコッチ業界の大巨人~その① 東京ウイスキー&スピリッツコンペティション-TWSC 

P.81
竹鶴は蒸留主任に代わってバルブを握った。この瞬間、歯車と蒸気音が耳を聾し続ける深更の工場で、二基の巨大な蒸留機はもはや冷たい鉄塊ではなく、ウイスキー造りをめざす若い一日本人の肉体の一部となって躍動を始めていた。

P.90
Scotland, my auld, respected mither ! Tho’ whiles ye moistify your leather……、我が敬いし母なる国、スコットランドよ。汝がときに肌をしめらそうとも、ヒースの茂みまで乾ききっているではないか。

自由あるところにウイスキーはある。さあひと息に杯を空けよ。

P.92
クリスマスのクライマックスはプディング占いであった。すなわち、プディング・ケーキをそれぞれ切って食べる際、六ペンス銀貨が入っていれば金持ちに、指貫を当てた女の子はいいお嫁さんになれるというものである。もし、女の子に指貫、男に六ペンス銀貨が入っていれば、二人は将来結ばれるという。
ケーキにナイフを入れるたびにルーシーやラムゼイは歓声をあげた。そして、リタに指貫、竹鶴に六ペンス銀貨が当たると、歓声は家族全員に伝わった。

P.93
「マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。その夢は日本で本当のウイスキーを造ることですね。私もその夢を共に生き、お手伝いさせていただきたいのです。」

P.95
「射止めたのではなく、魅かれたんです。マサタカさんには潔い心があるのよ、日本のサムライとスコットランドの氏族社会[クラン]の勇士に共通する魂が。……わたしも、きょうから同じ心をもって生きます。もう、ジェシー・ロベールタ・カウンではありません、リタ・タケツルです」

P.115
寿屋による、わが国最初のこのヌード・ポスターが世間を驚かせたのは、大正十一年。竹鶴政孝が摂津酒造を去った年の事である。寿屋の鳥井信治郎が赤玉ポートワインを製造販売したのは、明治四十年。鳥井は発売後さっそく<洋酒問屋。親切ハ弊店ノ特色ニシテ出荷迅速ナリ>と新聞に広告を出している。

http://lovefami.s1008.xrea.com/wp/?p=13453

http://lovefami.s1008.xrea.com/wp/?p=13144

P.133
竹鶴は発売に向けて、大阪工場でできたアルコールとブレンドする手筈を整えた。
翌四年四月一日、わが国初の本格ウイスキーは<白札サントリー>として発売された。サントリーの命名は、赤玉(太陽[サン])の鳥井、すなわち赤玉ポートワインで成長した寿屋が、ウイスキーに命運をかけようとした決意を表していた。値段も、当時輸入もののジョニーウォーカーの赤が五円であったところへ、四円五十銭をつけた。

<醒めよ人! 舶来盲信の時代は去れり 酔はずや人 吾に國産 至高の美酒 サントリーウヰスキーはあり!>

https://twitter.com/akashi_takuya/status/1167023173654564864

http://lovefami.s1008.xrea.com/wp/?p=497

P.188
人間は酒なしでは生きてゆけない。生命を維持するのに食料が不可欠のものとするならば、酒は心の飢えをしのぐ糧といっていいだろう。

P.198
赤い燠を前にして、坐る。猟師の話に耳を傾け、コップにウイスキーを注ぎこむ。冷えた身体がしだいに温もってくる。コップを傾けて舌の上に転がし、香りを心ゆくまであじわいながら喉に流し込む。熱い液体が静かに舞い降りる。胸の奥底に達すると、はじけるように燃え上がり、体の隅々にゆっくりひろがっていく。

——このウイスキーでなければいかんのだ。

P.212
二十九年、夏
加賀とニッカ社員の確執は思いがけない結末を迎えた。病床にあった加賀が、持株を売却してしまったのである。(中略)朝日麦酒社長の山本為三郎に後事を託し、手放したのである。当時加賀は最大の株主であり、芝川の持株を加えると、ニッカの株の大半を占めていた。ニッカは自動的に朝日麦酒の傘下に入ることになった。

ニッカウヰスキー – Wikipedia 
NIKKA WHISKY

P.226
昭和三十一年十一月、ニッカの二級ウイスキーは<丸壜ウヰスキー>、通称、丸壜ニッキーとして粧いを新たに登場した。価格はトリスと同じく六百四十ミリリットルで三百四十円。この年、ニッカは特級ウイスキー<ブラックニッカ>も新発売している。

https://twitter.com/akashi_takuya/status/980439437774483456

P.228
生きることは、なんと愉しいことだろう。竹鶴は宵闇に漂う花の香り深々と吸い込み、グラスに手を伸ばす。

——命は食にあり。これを忘れてはいかん。
ウイスキー造りはたんなる技術ではない。造る側も飲む方も、それにふさわしい舌をもたねばならない。嗅覚を磨かねばならない。できることなら、英国人がウイスキー相手にじっくり生を愉しむように、酔うためでなく愉しむために飲んでほしい。それが、ウイスキー造りに一生を捧げ、七十半ばにして毎日一本のウイスキーを愉しむ竹鶴の心からの願いだった。

P.229-230
キング・オブ・ブレンダーズのラベルを前に、ひとり静かにグラスを運んでいると、リタはすぐ傍にいるように思えた。

リタ。

竹鶴は庭の宵闇に呼びかけた。七十四の老人とは思えぬ朗らかな若々しい声であった。ラベルの中でキング・オブ・ブレンダーズが、一瞬、微笑んだように感じられた。

川又一英 著『ヒゲのウヰスキー誕生す』https://amzn.to/3ZaVvVZ

https://twitter.com/akashi_takuya/status/1610650916436480001

https://twitter.com/akashi_takuya/status/1596004254028034048

http://lovefami.s1008.xrea.com/wp/?p=13387